定食屋に現れた、疲れた顔のサラリーマン 彼がカレーうどんを頼んだワケは By - grape編集部 公開:2017-12-30 更新:2018-07-25 grapeアワードgrapeアワード授賞作品サラリーマンニッポン放送 Share Tweet LINE 『カレーうどんを、お願いします』 日中忙しく、いつも最寄り駅に帰りつくのは、22時くらい。そんな時間でもあいているお店は少なく、わたしはいつも同じ定食屋さんに通っている。 吉祥寺駅から歩いて3分ほどの、カウンターが6席と、4人がけテーブルが3つの小さな定食屋さん。そこで出会ったある出来事の話をしたい。 わたしはいつものように、駅に着くとその定食屋さんに向かった。カウンターが珍しくいっぱいで、テーブル席に通された。テーブルの上にあるメニューを何の気なしに眺め、結局いつもの「豚しょうが焼き定食」を頼んだ。 使い込まれてうすぼんやり曇ったプラスティックのコップから水をすすっていると、ガララ、という音と共に、引き戸が開いた。 見るともなく顔を上げると、そこには中年(初老?)男性が大きな花束をもって、入ってくるところだった。大きな花束とやや疲れた顔の男性とがあまりにミスマッチで、意識がそちらにかたむいた。 「あれ、どうしたの、こんな時間に。珍しい」 馴染み客であるようで、女将さんが気さくに声をかけた。 「いや、ちょっとね。どうしてもここで食べたいものがあって」 そう言い、私の向かいのテーブルに腰かけた。一旦鞄をとなりの椅子の上に置いたが、ふと花束を見て、鞄を床におろし、花束をそっと椅子に上にのせた。 「注文はどうします?」 その男性は出されたおしぼりで手をぬぐいながら、 「カレーうどん、をお願いします」とやや疲れた声でそう言った。 「カレーうどんですね。これまた珍しい。少々お待ちくださいね」 女将さんは注文を聞くと、カウンターに伝えにいった。 たっぷりのキャベツと甘辛く炒まった豚肉に玉ねぎがからんだ、あったかいいい匂いのする定食が私の元に届けられた。お味噌汁と、カブのおしんこ、ほかほかごはん。いつもなら夢中になってごはんと豚肉をかきこむところだが、今日はなんだかその男性が気になって、大人しくお味噌汁から手をつけた。 少したって、カレーのいい香りがしてきた。男性もそれに気づいたのか、やや眉間にしわをよせたまま、軽く目をつむって、鼻をひくひくと動かしているようにみえる。花束は相変わらず、男性の隣の席にある。 「お待たせしました、カレーうどんです」 女将さんが、トレーのまま、その男性の前にカレーうどんをおいた。 「やぁ、いい匂いだ。うまそうだ」 さっきまでの厳しい、でも少しさみしそうな表情から一転、笑顔で女将さんに語りかける男性。 「…実は今日で定年退職になってね」 定年祝いの花束だったんだ、と男性の風貌と表情に似合わない花束の意味が、ようやくわかった。でも、なんでカレーうどん?小さな甘じょっぱい豚肉のかけらを口に含んで、次の言葉を待った。男性はそのまま次の言葉をぽつり、ぽつり、と話し出した。 「実は、僕はカレーうどんが大好きなんだ。だからね、昼にここでカレーうどんを食べている人をみてうらやましく思っていたよ。でも、ホラ、僕は営業だからね。基本的には白いシャツだ。お昼にカレーうどんを食べて、ピッと白いシャツにはねたら大変だ。女房にも怒られるし、得意先にも行けなくなってしまからね」 おもむろに男性がジャケットを脱いで、花束を置いている椅子の背もたれにかけた。白い、シャツだった。 「もうこのシャツを着ることはないだろう、そしてここに来ることもそうないだろう。だから定年になったその日は、ここでカレーうどんを思いっきりすすろうと決めていたんだ」 パキン、と箸を割る男性。「いただくよ」と女将に声をかける。「…はい、思いっきりどうぞ」女将がさみしそうに、でも茶目っ気をもって声をかける。 おもむろに箸を突っ込む男性。豪快に麺をひっぱりあげ、そのままの勢いで吸い込む。ずずずずずず、と男性がカレーうどんをすすりこむ音が店内に響いた。白いシャツに、点、点と茶色い染みができるのをみた。 わたしは今、大手ビールメーカーで、営業職として、日々多忙を極めている。そんな時に出会った、このシーン。今は忙しくて自分のことを振り返っている暇なんて、ない。 でも、その男性がカレーうどんを思いっきりすすっている姿をみて、35年後の自分を想像することができた。万感の思いで、その日を迎えた男性に敬意を示すとともに、今いちど、今の自分のことを、そして35年後の自分に思いをはせた。 「わたしは、あんないい顔をして、最後の日をむかえられるだろうか」いや、「そんな風にむかえるために、何ができるのか」 遠い、でもきっと意外に近い、その日に思いをはせながら、甘辛い汁をたっぷり含んだキャベツを口にいれた。なんだか、じんわり、いつもよりあったかい味だった。 これを読んでくださった人にも、一度想像してみてほしい。 「自分にとって節目の日に、どういう自分でいたいですか」 …わたしは、思いっきり笑顔で、今までの思い出をふりかえりながら、心にのこった料理を食べたい。 あの男性のように。 grapeアワード優秀賞受賞『カレーうどんを、お願いします』PN:あだち まいこ 『心に響く』エッセイコンテスト『grapeアワード』 grapeは2017年、エッセイを募集するコンテスト『grapeアワード』を開催しました。 応募作品は246本。その中から最優秀賞・1作品、優秀賞・6作品が選ばれました。その他の授賞作品は、下記ページよりご覧いただけます。 grapeアワード授賞作品一覧 出典grape/grapeアワード Share Tweet LINE
『カレーうどんを、お願いします』
日中忙しく、いつも最寄り駅に帰りつくのは、22時くらい。そんな時間でもあいているお店は少なく、わたしはいつも同じ定食屋さんに通っている。
吉祥寺駅から歩いて3分ほどの、カウンターが6席と、4人がけテーブルが3つの小さな定食屋さん。そこで出会ったある出来事の話をしたい。
わたしはいつものように、駅に着くとその定食屋さんに向かった。カウンターが珍しくいっぱいで、テーブル席に通された。テーブルの上にあるメニューを何の気なしに眺め、結局いつもの「豚しょうが焼き定食」を頼んだ。
使い込まれてうすぼんやり曇ったプラスティックのコップから水をすすっていると、ガララ、という音と共に、引き戸が開いた。
見るともなく顔を上げると、そこには中年(初老?)男性が大きな花束をもって、入ってくるところだった。大きな花束とやや疲れた顔の男性とがあまりにミスマッチで、意識がそちらにかたむいた。
「あれ、どうしたの、こんな時間に。珍しい」
馴染み客であるようで、女将さんが気さくに声をかけた。
「いや、ちょっとね。どうしてもここで食べたいものがあって」
そう言い、私の向かいのテーブルに腰かけた。一旦鞄をとなりの椅子の上に置いたが、ふと花束を見て、鞄を床におろし、花束をそっと椅子に上にのせた。
「注文はどうします?」
その男性は出されたおしぼりで手をぬぐいながら、
「カレーうどん、をお願いします」とやや疲れた声でそう言った。
「カレーうどんですね。これまた珍しい。少々お待ちくださいね」
女将さんは注文を聞くと、カウンターに伝えにいった。
たっぷりのキャベツと甘辛く炒まった豚肉に玉ねぎがからんだ、あったかいいい匂いのする定食が私の元に届けられた。お味噌汁と、カブのおしんこ、ほかほかごはん。いつもなら夢中になってごはんと豚肉をかきこむところだが、今日はなんだかその男性が気になって、大人しくお味噌汁から手をつけた。
少したって、カレーのいい香りがしてきた。男性もそれに気づいたのか、やや眉間にしわをよせたまま、軽く目をつむって、鼻をひくひくと動かしているようにみえる。花束は相変わらず、男性の隣の席にある。
「お待たせしました、カレーうどんです」
女将さんが、トレーのまま、その男性の前にカレーうどんをおいた。
「やぁ、いい匂いだ。うまそうだ」
さっきまでの厳しい、でも少しさみしそうな表情から一転、笑顔で女将さんに語りかける男性。
「…実は今日で定年退職になってね」
定年祝いの花束だったんだ、と男性の風貌と表情に似合わない花束の意味が、ようやくわかった。でも、なんでカレーうどん?小さな甘じょっぱい豚肉のかけらを口に含んで、次の言葉を待った。男性はそのまま次の言葉をぽつり、ぽつり、と話し出した。
「実は、僕はカレーうどんが大好きなんだ。だからね、昼にここでカレーうどんを食べている人をみてうらやましく思っていたよ。でも、ホラ、僕は営業だからね。基本的には白いシャツだ。お昼にカレーうどんを食べて、ピッと白いシャツにはねたら大変だ。女房にも怒られるし、得意先にも行けなくなってしまからね」
おもむろに男性がジャケットを脱いで、花束を置いている椅子の背もたれにかけた。白い、シャツだった。
「もうこのシャツを着ることはないだろう、そしてここに来ることもそうないだろう。だから定年になったその日は、ここでカレーうどんを思いっきりすすろうと決めていたんだ」
パキン、と箸を割る男性。
「いただくよ」と女将に声をかける。
「…はい、思いっきりどうぞ」
女将がさみしそうに、でも茶目っ気をもって声をかける。
おもむろに箸を突っ込む男性。豪快に麺をひっぱりあげ、そのままの勢いで吸い込む。ずずずずずず、と男性がカレーうどんをすすりこむ音が店内に響いた。白いシャツに、点、点と茶色い染みができるのをみた。
わたしは今、大手ビールメーカーで、営業職として、日々多忙を極めている。そんな時に出会った、このシーン。今は忙しくて自分のことを振り返っている暇なんて、ない。
でも、その男性がカレーうどんを思いっきりすすっている姿をみて、35年後の自分を想像することができた。万感の思いで、その日を迎えた男性に敬意を示すとともに、今いちど、今の自分のことを、そして35年後の自分に思いをはせた。
「わたしは、あんないい顔をして、最後の日をむかえられるだろうか」いや、「そんな風にむかえるために、何ができるのか」
遠い、でもきっと意外に近い、その日に思いをはせながら、甘辛い汁をたっぷり含んだキャベツを口にいれた。なんだか、じんわり、いつもよりあったかい味だった。
これを読んでくださった人にも、一度想像してみてほしい。
「自分にとって節目の日に、どういう自分でいたいですか」
…わたしは、思いっきり笑顔で、今までの思い出をふりかえりながら、心にのこった料理を食べたい。
あの男性のように。
grapeアワード優秀賞受賞
『カレーうどんを、お願いします』
PN:あだち まいこ
『心に響く』エッセイコンテスト『grapeアワード』
grapeは2017年、エッセイを募集するコンテスト『grapeアワード』を開催しました。
応募作品は246本。その中から最優秀賞・1作品、優秀賞・6作品が選ばれました。その他の授賞作品は、下記ページよりご覧いただけます。
grapeアワード授賞作品一覧