学童で遊ぶ子供たち 大人がハッとさせられたことは…【きしもとたかひろ連載コラム】 By - grape編集部 公開:2020-08-19 更新:2020-08-19 きしもとたかひろ子ども子育て連載 Share Tweet LINE Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。 連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。 ふとした瞬間、大人は子供から『気付き』を得ることも。きしもとさんは、子供たちと触れ合っていろいろなことを学んだといいます。 第8回『とけたアイスは 冷たいジュースに。』 子どもが折り紙をしていた。何を作っているのか聞けば「まだわからん。折ってたらなんかできるかなと思って」と返ってきた。 折り紙というのは完成形があってそれに向けて折るものだと思っていた。「なんかできるかな」と当てもなく折って楽しむのか。自由でいいなと思った。 同時に、野暮なこと聞いたなとも思った。子どもの活動を深めようとしてかけた言葉が逆に邪魔しているような気がして、言い訳するように「いいね、何ができるか楽しみやね」と返した。 しばらくしてから「ほらな、適当にやったらなんかできる思ったら、やっぱなんかできたわ」と出来上がったものを見せてくれた。たしかに適当に折ったとは思えない、それっぽいものができていて感心した。 なんだろう?ヨットのようにも見えるしリボンのようにも見えるな…と正解を探しそうになって慌てて「ほんまや、すごいなあ。適当にやったらなんかできるんやな」とその子の言葉をそのまま借りて、本心を伝えた。 隣で見ていた子が「それなに?」と尋ねた。やっぱり気になるよね、と耳をそばだてていると、その子は「なんか!」と答えた。 なんだ、なんでもない「なんか」だったのか。ああ、やっぱり僕の想像なんか飛び越えてて素敵だなとあらためて思った。 折り紙や工作をしていると、その作ったものでごっこ遊びが始まったりする。お店屋さんをしたり、学校ごっこをしたり。 そのごっこ遊びが発展するとそれを広げるためにまた、例えばお金だったりバッグだったり、さらに新しいものを制作していく。 小学生にもなってごっこ遊びというと「幼稚っぽい」と心配されるけれど、意外とそんなことはない。子どもの発達や育ちに大きく関係していて、社会性や創造性を育む重要で質の高いあそびだ。 学童で過ごす時間は短いため、あそびが盛り上がり始めたタイミングで帰る時間になることがある。そんなときには、次の日に続きをする。しなかったりもする。 ある年、2、3年生の子たちがやっていたごっこ遊びが半年ほど続いた。学童にある本を並べて本屋を開いたり自分たちで本を作ったり、絵を描いたりそれをお面にして売ったり、折り紙やイラストを並べてお店屋さんごっこをすることもあれば、レジ自体を作って遊ぶ日もあった。 その日その日で、やりたいことや思いついたあそびをして、次第に周りを巻き込んでいく。関係ないあそびをしている男子たちが、手を止めて色紙で作られたバッグを持ってお店屋さんで買い物をする。そんな不思議な風景が見られるようになっていった。 ある子が、そのごっこ遊びをそのまま生かして夏祭りをすると言い出した。日程を決めてポスターを貼り、ダンボールで作ったモグラ叩きや輪投げを制作して、景品も折り紙などで大量に作った。 僕はといえば、手出し無用とばかりに買い出しリストを渡されて、仕入れ担当に任命された。たまにお面の色ぬりをさせてもらって褒めてもらった。 当日は大盛況だった。普段ごっこ遊びに興味がない子でもノリノリで楽しんでいた。お店に並んでいる子が「楽しみすぎてばくはつしそう!」と笑顔を爆発させていた。 「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれて、接客応対まで本物みたいだなと感心しながら「持っていません」と答えると「ではお作りしておきますね」と、お洒落なカードを渡された。素晴らしい接客。僕がパン屋の店長だったらバイトに引き抜いているところだ。 面白いのが、みんながみんな接客をしたがるわけではなくて、裏で景品を制作したりゲームの仕込みをしている子たちもいたこと。 こんなこと言ったらまじめに働いている人に怒られそうだけれど、考えてみれば僕たちが生活している社会も、それぞれの役割になりきっていろんな役を演じている、ある意味ごっこ遊びみたいなものだよな、なんてことを考えたりしていた。 あそびがこま切れにならずに地続きであることや、発展して周りを巻き込んでいくことは保育の一つの理想だ。といってもなかなかそんなに上手くはいかず、それは大人の都合の時もあれば移り気な子どもの気分によるところもある。 無理に続けさせるようなことはしないから、自然とこんな風に行事に発展したのはすごいと思ったし、次の年に子どもたちが「今年も夏祭りしよう!」と言い出して、下の代に受け継がれながら毎年の恒例になったことも、なにか成功しているように感じた。 そうすると、どのあそびもなにか成果の見えるものに向けてされるべきなんじゃないか、と期待してしまうようになる。ゴールに向かってやらないと意味のないような気がする。 子どもたちが意味のわからないあそび(あくまで僕には意味のわからないという意味)をしているのを眺めながら、どこに向かって行くんだろう。と考えていた。どこに向かうにしても楽しそうだなあと思った。あれ?どこかに向かわなければいけないんだっけ?と考えた。 そもそもあの夏祭りが完成形なんだろうか?夏祭りがゴールで、そこに向かうまでの活動は「準備期間」なんだろうか。 きっとそうじゃないよね、と思い直した。はじめの折り紙でもう完成しているんだ。その日その時に夢中になっているその瞬間が、どこに向かっているでもないけれど、そのいまで完成している。 それがどんどん広がって形を変えていく。あの夏祭りは、その日々がたまたま積み重なって、たまたま目に見えるものになっただけだった。 未完成のものを完成に近づけようとすると足りないピースを埋めることを考えてしまうけれど、もう完成しているものが形を変えて育っていくと思うと、その時その時の姿を大切にできるような気がする。 夏祭りが恒例となった何年目かの夏、進捗を尋ねると「まだ全然準備できてへんねん、へへへ」と笑っていた。それはサボっていたのではなく、いま楽しいことに忙しいのだろう。 自分にできないことは、足りていないのではない 同僚から「仕事できる人を見て、自分は全然できていないなって思うんです」と相談を受けた。 その「仕事できる人」といわれている職員も、同じようなことを言っていたのを僕は知っている。隣の芝を見て羨ましがるというよりも、引け目を感じることのほうが多いらしい。 あの人にできていることを自分はできていない。自分には持っていないものを持っている人を見ると、それが正しい姿のように感じて自分ができていないように思ってしまう。 もともといる自分に足りてないものがあるような、例えるならパズルのピースが一つ欠けているような気がしてしまう。 あの人は持っているけれど自分は持っていない。できていない。そんなことを思い始めたら、いろんな人と自分を比較して、パズルにはどんどん虫食いが増えていく。 子どもを見る時もそうだ。ついついできないところに目がいって、足りないように感じて、それを埋めることや隠すことに必死になる。 それが成長や教育と呼ばれたりもする。それってとてもしんどいことだよね。だからね、少し見方を変えようと思う。 もともと完成していて、なにか特別にできることはトッピングみたいなものなんだと。仕事が早い、コンピュータに強い、英語が話せるとか足が速いとか。 いや、特別にできることだけではないかもしれない。言葉を喋れるとか、歩けるとか、もっと当たり前だと思っている、耳が聞こえるとか目が見えるとかもそうかもしれない。 うまくできるようになって完成するのではない。もう完成している。何かできることは特別なことで、それができないからといってダメなのではない。 仕事が早い人を見て、「自分はなんで仕事が遅いんだろう」ではなくて、あの人は特別な力を持っているのだと思うようにする。 誰かの得意を自分ができないからと言って、それは自分の「苦手なこと」ではないのだと。ただその人の得意なのだと。 自己肯定感って、できる自分を誇れることでも、できない自分を認めることでもなく、今の自分の姿をそのまま肯定できることだ。難しいけれど、それができるようになりたい。 あの人はなんでできないんだろう、と思ってしまう時も、「あいつ出来ないな」ではなくて、自分やるやんって思えたら。自分が当たり前にできていることでも自分が少し特別なのかもしれないと思えたら、自分も相手もしんどくないよね。 今までの時代は、みんなができて当たり前だった。同じことを同じように。だから、できないことを欠点と呼んでいた。 けれど、これからの時代は「みんなができなくて当たり前」でいい。みんなができなくて当たり前というのはできない状態が普通だということ。 そしてそれぞれの「できること」は優れていることではなく、その人の一部として認めていく。 みんなができて当たり前のことなんてないんだって知ると、できている人を見て同じようにできていない自分に引け目を感じることは少なくなるんじゃないかな。 ぼくはあまり何かに挑戦したことはない。就活も受験勉強もほとんどしてこなかった。 だから、何かに向けて必死になることも何かに失敗して絶望することも、それをしてきた人と比べて経験が浅いと思う。 それでも、こんな未来のはずじゃなかったのになって思うことはある。失敗とまではいかなくても、思っていた未来とは違っていると、やっぱり落ち込む。 その先に見ていた世界が見られないことはやっぱり悲しい。あるかもしれないと思っていた道がないことを知ると、みんなは進んでいるのに自分には進めないのかと、希望を持っていた自分は大した人間じゃないんだと思ったりする。 「けれど、今の目の前のことは何も変わっていないじゃない」 と友人が言った。挑戦して失敗したとしても、思っていた未来にならなくても、いま十分生きていて幸せで、それはなにも失くならないじゃないかと。 たしかに、これから期待する未来がこなくても、いま大事にしてるものや幸せであることは変わらない。挑戦して失敗しても、減りはしないのかもしれない。 ならなおさら、いま充たされていることが、なにかになるための、どこかに向かうための大きな礎となるのだろう。 余談ですが 子どもがアイロンビーズを作っていた。なにを作っているのか気になって見ていると、それを察したのか「イヌ作ってるねん」と教えてくれた。しばらくして完成したものを見せてくれた。 「イヌ、かわいく作れたやん」と伝えると「ネコやで」と返された。あれ?イヌって言ってなかったっけ?と思っていると「イヌ作ってたけどネコみたいになったから、ネコにしてん」と教えてくれた。自由で素敵だなと思った。 そんな風に生きていけたらいいな、とネコになったイヌを見て思う。目指したり憧れていた人生でなくても、思いもしない生き方になっても、「イヌを目指してたけどネコもいいかなって思ってん」と生きていけたら。そうやって生きていけるように子どもたちを受けとめられたら。 「これ、あげるわ」と、さっきのネコと同じサイズのアイロンビーズを手渡された。ぼくが異動で会わなくなるから餞別らしい。ピンクの顔に耳が生えていて目と鼻が色を変えてつけられている。 ウサギだな、と思っていたら「ウサギを作っててんけど、ブタみたいになったからブタやで」と、面白いのか照れてるのかわからない笑顔で教えてくれた。 「ウサギに見えるよ」とは言わなかった。ウサギのつもりがブタになった。それを知ったらなんだか、そのピンクのブタが急に愛らしく見えてきた。 先日、6歳の友人と出かけた時に、暑かったので自販機でアイスを買った。17種類ある中からソーダ味のシャーベットを選んだ。 吸って食べるタイプのやつだ。はじめのうちは固くて出てこないからと絞り出すようお願いされた。 しばらくしたら暑さでとけてほとんど液体になっていた。「溶けちゃったね」と言うと、「溶かしてジュースになるのが美味しいねん」と言っていた。 アイスを食べてるつもりだったのに途中からジュースを飲んでいた。ぼくはなぜだか、ブタになったウサギのことを思い出した。 空になった容器をゴミ箱に捨てるよう促すと、「こんなにきれいなのに捨てちゃうの?」と悲しい顔をした。ぼくが笑っていると、容器にキスをしてゴミ箱に勢いよく放り込んだ。 意味がわからないけどおかしくって、ぼくはきっとずっと忘れないだろうなと思った。 きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら 出典grape Share Tweet LINE Related Article ゲームの課金について相談された小5男児が? 「鋼の精神」「かしこすぎる」 こたつに上半身を入れる息子たち 母親が確認すると… 「幸せな空間」「うらやましい」 「信頼の置けそうなお医者さん出てきた」 父親を唸らせた、3歳娘の『お医者さんごっこ』とは 「何これ、可愛い」「幸せな気持ちになった」 レジで会計待ちする母親に、息子が?
Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。
連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。
ふとした瞬間、大人は子供から『気付き』を得ることも。きしもとさんは、子供たちと触れ合っていろいろなことを学んだといいます。
第8回『とけたアイスは 冷たいジュースに。』
子どもが折り紙をしていた。何を作っているのか聞けば「まだわからん。折ってたらなんかできるかなと思って」と返ってきた。
折り紙というのは完成形があってそれに向けて折るものだと思っていた。「なんかできるかな」と当てもなく折って楽しむのか。自由でいいなと思った。
同時に、野暮なこと聞いたなとも思った。子どもの活動を深めようとしてかけた言葉が逆に邪魔しているような気がして、言い訳するように「いいね、何ができるか楽しみやね」と返した。
しばらくしてから「ほらな、適当にやったらなんかできる思ったら、やっぱなんかできたわ」と出来上がったものを見せてくれた。たしかに適当に折ったとは思えない、それっぽいものができていて感心した。
なんだろう?ヨットのようにも見えるしリボンのようにも見えるな…と正解を探しそうになって慌てて「ほんまや、すごいなあ。適当にやったらなんかできるんやな」とその子の言葉をそのまま借りて、本心を伝えた。
隣で見ていた子が「それなに?」と尋ねた。やっぱり気になるよね、と耳をそばだてていると、その子は「なんか!」と答えた。
なんだ、なんでもない「なんか」だったのか。ああ、やっぱり僕の想像なんか飛び越えてて素敵だなとあらためて思った。
折り紙や工作をしていると、その作ったものでごっこ遊びが始まったりする。お店屋さんをしたり、学校ごっこをしたり。
そのごっこ遊びが発展するとそれを広げるためにまた、例えばお金だったりバッグだったり、さらに新しいものを制作していく。
小学生にもなってごっこ遊びというと「幼稚っぽい」と心配されるけれど、意外とそんなことはない。子どもの発達や育ちに大きく関係していて、社会性や創造性を育む重要で質の高いあそびだ。
学童で過ごす時間は短いため、あそびが盛り上がり始めたタイミングで帰る時間になることがある。そんなときには、次の日に続きをする。しなかったりもする。
ある年、2、3年生の子たちがやっていたごっこ遊びが半年ほど続いた。学童にある本を並べて本屋を開いたり自分たちで本を作ったり、絵を描いたりそれをお面にして売ったり、折り紙やイラストを並べてお店屋さんごっこをすることもあれば、レジ自体を作って遊ぶ日もあった。
その日その日で、やりたいことや思いついたあそびをして、次第に周りを巻き込んでいく。関係ないあそびをしている男子たちが、手を止めて色紙で作られたバッグを持ってお店屋さんで買い物をする。そんな不思議な風景が見られるようになっていった。
ある子が、そのごっこ遊びをそのまま生かして夏祭りをすると言い出した。日程を決めてポスターを貼り、ダンボールで作ったモグラ叩きや輪投げを制作して、景品も折り紙などで大量に作った。
僕はといえば、手出し無用とばかりに買い出しリストを渡されて、仕入れ担当に任命された。たまにお面の色ぬりをさせてもらって褒めてもらった。
当日は大盛況だった。普段ごっこ遊びに興味がない子でもノリノリで楽しんでいた。お店に並んでいる子が「楽しみすぎてばくはつしそう!」と笑顔を爆発させていた。
「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれて、接客応対まで本物みたいだなと感心しながら「持っていません」と答えると「ではお作りしておきますね」と、お洒落なカードを渡された。素晴らしい接客。僕がパン屋の店長だったらバイトに引き抜いているところだ。
面白いのが、みんながみんな接客をしたがるわけではなくて、裏で景品を制作したりゲームの仕込みをしている子たちもいたこと。
こんなこと言ったらまじめに働いている人に怒られそうだけれど、考えてみれば僕たちが生活している社会も、それぞれの役割になりきっていろんな役を演じている、ある意味ごっこ遊びみたいなものだよな、なんてことを考えたりしていた。
あそびがこま切れにならずに地続きであることや、発展して周りを巻き込んでいくことは保育の一つの理想だ。といってもなかなかそんなに上手くはいかず、それは大人の都合の時もあれば移り気な子どもの気分によるところもある。
無理に続けさせるようなことはしないから、自然とこんな風に行事に発展したのはすごいと思ったし、次の年に子どもたちが「今年も夏祭りしよう!」と言い出して、下の代に受け継がれながら毎年の恒例になったことも、なにか成功しているように感じた。
そうすると、どのあそびもなにか成果の見えるものに向けてされるべきなんじゃないか、と期待してしまうようになる。ゴールに向かってやらないと意味のないような気がする。
子どもたちが意味のわからないあそび(あくまで僕には意味のわからないという意味)をしているのを眺めながら、どこに向かって行くんだろう。と考えていた。どこに向かうにしても楽しそうだなあと思った。あれ?どこかに向かわなければいけないんだっけ?と考えた。
そもそもあの夏祭りが完成形なんだろうか?夏祭りがゴールで、そこに向かうまでの活動は「準備期間」なんだろうか。
きっとそうじゃないよね、と思い直した。はじめの折り紙でもう完成しているんだ。その日その時に夢中になっているその瞬間が、どこに向かっているでもないけれど、そのいまで完成している。
それがどんどん広がって形を変えていく。あの夏祭りは、その日々がたまたま積み重なって、たまたま目に見えるものになっただけだった。
未完成のものを完成に近づけようとすると足りないピースを埋めることを考えてしまうけれど、もう完成しているものが形を変えて育っていくと思うと、その時その時の姿を大切にできるような気がする。
夏祭りが恒例となった何年目かの夏、進捗を尋ねると「まだ全然準備できてへんねん、へへへ」と笑っていた。それはサボっていたのではなく、いま楽しいことに忙しいのだろう。
自分にできないことは、足りていないのではない
同僚から「仕事できる人を見て、自分は全然できていないなって思うんです」と相談を受けた。
その「仕事できる人」といわれている職員も、同じようなことを言っていたのを僕は知っている。隣の芝を見て羨ましがるというよりも、引け目を感じることのほうが多いらしい。
あの人にできていることを自分はできていない。自分には持っていないものを持っている人を見ると、それが正しい姿のように感じて自分ができていないように思ってしまう。
もともといる自分に足りてないものがあるような、例えるならパズルのピースが一つ欠けているような気がしてしまう。
あの人は持っているけれど自分は持っていない。できていない。そんなことを思い始めたら、いろんな人と自分を比較して、パズルにはどんどん虫食いが増えていく。
子どもを見る時もそうだ。ついついできないところに目がいって、足りないように感じて、それを埋めることや隠すことに必死になる。
それが成長や教育と呼ばれたりもする。それってとてもしんどいことだよね。だからね、少し見方を変えようと思う。
もともと完成していて、なにか特別にできることはトッピングみたいなものなんだと。仕事が早い、コンピュータに強い、英語が話せるとか足が速いとか。
いや、特別にできることだけではないかもしれない。言葉を喋れるとか、歩けるとか、もっと当たり前だと思っている、耳が聞こえるとか目が見えるとかもそうかもしれない。
うまくできるようになって完成するのではない。もう完成している。何かできることは特別なことで、それができないからといってダメなのではない。
仕事が早い人を見て、「自分はなんで仕事が遅いんだろう」ではなくて、あの人は特別な力を持っているのだと思うようにする。
誰かの得意を自分ができないからと言って、それは自分の「苦手なこと」ではないのだと。ただその人の得意なのだと。
自己肯定感って、できる自分を誇れることでも、できない自分を認めることでもなく、今の自分の姿をそのまま肯定できることだ。難しいけれど、それができるようになりたい。
あの人はなんでできないんだろう、と思ってしまう時も、「あいつ出来ないな」ではなくて、自分やるやんって思えたら。自分が当たり前にできていることでも自分が少し特別なのかもしれないと思えたら、自分も相手もしんどくないよね。
今までの時代は、みんなができて当たり前だった。同じことを同じように。だから、できないことを欠点と呼んでいた。
けれど、これからの時代は「みんなができなくて当たり前」でいい。みんなができなくて当たり前というのはできない状態が普通だということ。
そしてそれぞれの「できること」は優れていることではなく、その人の一部として認めていく。
みんなができて当たり前のことなんてないんだって知ると、できている人を見て同じようにできていない自分に引け目を感じることは少なくなるんじゃないかな。
ぼくはあまり何かに挑戦したことはない。就活も受験勉強もほとんどしてこなかった。
だから、何かに向けて必死になることも何かに失敗して絶望することも、それをしてきた人と比べて経験が浅いと思う。
それでも、こんな未来のはずじゃなかったのになって思うことはある。失敗とまではいかなくても、思っていた未来とは違っていると、やっぱり落ち込む。
その先に見ていた世界が見られないことはやっぱり悲しい。あるかもしれないと思っていた道がないことを知ると、みんなは進んでいるのに自分には進めないのかと、希望を持っていた自分は大した人間じゃないんだと思ったりする。
「けれど、今の目の前のことは何も変わっていないじゃない」
と友人が言った。挑戦して失敗したとしても、思っていた未来にならなくても、いま十分生きていて幸せで、それはなにも失くならないじゃないかと。
たしかに、これから期待する未来がこなくても、いま大事にしてるものや幸せであることは変わらない。挑戦して失敗しても、減りはしないのかもしれない。
ならなおさら、いま充たされていることが、なにかになるための、どこかに向かうための大きな礎となるのだろう。
余談ですが
子どもがアイロンビーズを作っていた。なにを作っているのか気になって見ていると、それを察したのか「イヌ作ってるねん」と教えてくれた。しばらくして完成したものを見せてくれた。
「イヌ、かわいく作れたやん」と伝えると「ネコやで」と返された。あれ?イヌって言ってなかったっけ?と思っていると「イヌ作ってたけどネコみたいになったから、ネコにしてん」と教えてくれた。自由で素敵だなと思った。
そんな風に生きていけたらいいな、とネコになったイヌを見て思う。目指したり憧れていた人生でなくても、思いもしない生き方になっても、「イヌを目指してたけどネコもいいかなって思ってん」と生きていけたら。そうやって生きていけるように子どもたちを受けとめられたら。
「これ、あげるわ」と、さっきのネコと同じサイズのアイロンビーズを手渡された。ぼくが異動で会わなくなるから餞別らしい。ピンクの顔に耳が生えていて目と鼻が色を変えてつけられている。
ウサギだな、と思っていたら「ウサギを作っててんけど、ブタみたいになったからブタやで」と、面白いのか照れてるのかわからない笑顔で教えてくれた。
「ウサギに見えるよ」とは言わなかった。ウサギのつもりがブタになった。それを知ったらなんだか、そのピンクのブタが急に愛らしく見えてきた。
先日、6歳の友人と出かけた時に、暑かったので自販機でアイスを買った。17種類ある中からソーダ味のシャーベットを選んだ。
吸って食べるタイプのやつだ。はじめのうちは固くて出てこないからと絞り出すようお願いされた。
しばらくしたら暑さでとけてほとんど液体になっていた。「溶けちゃったね」と言うと、「溶かしてジュースになるのが美味しいねん」と言っていた。
アイスを食べてるつもりだったのに途中からジュースを飲んでいた。ぼくはなぜだか、ブタになったウサギのことを思い出した。
空になった容器をゴミ箱に捨てるよう促すと、「こんなにきれいなのに捨てちゃうの?」と悲しい顔をした。ぼくが笑っていると、容器にキスをしてゴミ箱に勢いよく放り込んだ。
意味がわからないけどおかしくって、ぼくはきっとずっと忘れないだろうなと思った。
きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら
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